無名の埋葬者悼み慰霊碑
もう一つの横浜外国人墓地
1999.05.22 共同通信
多くの著名人が眠り、観光名所となっている横浜・山手の外国人墓地とは対照的に、一般には知られていない横浜市中区の「根岸外国人墓地」で二十二日、無名の埋葬者たちを悼む慰霊碑の除幕式が行われた。
同墓地は一九○二年、山手の墓地が手狭になったため設けられた。
関東大震災で死亡した当時の米国領事夫妻ら二十二カ国の約千二百人が眠るが、現存する墓標は約二百基。庶民的な墓地で、経済的理由から石碑を建てられなかった人も多かったらしい。
第二次大戦中、横浜港に入港していたドイツ艦船が爆発した事故では、将校たちは山手の墓地に、水兵たちは根岸の墓地に埋葬されたという。 戦後は、進駐軍の米兵と日本人女性との間に生まれ、祝福されないまま死んでいった混血児も多く葬られた、との証言もある。
慰霊碑は、地元の奉仕団体「横浜山手ライオンズクラブ」が建て、同クラブが三年前から集めた寄付金約二百万円で設置した。御影石の柱の上に天使の翼をイメージしたブロンズ像が乗っており、子供たちの悲しみなどを表現している。
柔らかな日差しの中、式は午前十時からゆっくりと進み、牧師が「この墓地に眠るすべての幼子と人々のために」と述べると、集まった約百五十人の関係者が一斉に「アーメン」と祈りをささげた。
【この国に生きて】
異邦人物語 エリアナ・パブロバ
2002.01.13 産経新聞社・東京朝刊
クラシックバレエの母 ロシア(1897年~1941年) ◆少女のように軍人に憧れ 「先生はずいぶんいやがらせを受けられた。『バレエスクール』の看板に石を投げていく人もいました。見かねた父が、筆で『霧島』と表札を書いてあげたんです」 七里ガ浜のバレエスクールでレッスンを受けていた「大滝愛子・バレエ・アート・シアター」主宰、大滝愛子(七二)は振り返った。
太平洋戦争へと突き進んでいった時代、日本の軍部はソ連の思想を危険視していた。ロシア語を習っているだけで、「アカ(共産主義者)」とみなされた。亡命ロシア人のパブロバ一家にまで疑惑の目が向けられた。そして、片仮名の言葉を使うだけで、今でこそ死語になっているが、「非国民」呼ばわりされた。 バレエスクールにしばしば憲兵がやって来た。生徒やその父母まで、不愉快な思いをするようになっていた。憲兵から「外国人からなぜ舞踊を習うのか。娘をやめさせなさい」と大滝の父親も言われたという。
そんな嫌がらせを受けながらも、エリアナは日本が好きだった。父親が軍人だったこともあり、日本の軍人を尊敬していた。ときには少女のように、横須賀線の列車の中で見かけた陸軍の将校にあこがれることさえあった。日本ジャズダンス芸術協会会長、近藤玲子(七八)は、こんな話をエリアナから聞いている。
「きょうすてきな兵隊さんを見たの。カーキ色のマントを着て、姿勢が良くて格好いいのよ」
昭和十五(一九四〇)年、エリアナの元をすでに巣立っていた貝谷八百子(やおこ)(一九二一-九一)が近藤らとともに中国南部へ軍隊の慰問に行った。慰問に派遣されることは名誉だと思われていた時代だった。エリアナも慰問を望んでいたが、母、ナタリアは許さなかった。
「先生は慰問に行ったことを大変うらやましがっていた。『どうだった?』と、そのときの話をいろいろ聞いてきた。『私も日本人なのに何で行っちゃいけないの』と言っていました」(近藤)
翌十六(一九四一)年一月末、念願かない、エリアナは陸軍恤兵(じゆつぺい)部から中国戦線への慰問団に選ばれた。エリアナに懇願され、ようやくナタリアも許したようだ。その年の三月初旬、中支軍慰問団団長として上海へ出発した。約二カ月間の慰問の旅だった。
出発の翌日、ナタリアから、門下生でロシア語が話せる服部智恵子(一九〇八-八四)の元に電話があったことを日本バレエ協会会長、島田広(八二)が記憶している。 「大変だわ。昨晩娘が霊柩(れいきゆう)車に乗って帰って来る夢を見たのよ。すぐ娘を呼び戻して」 取り乱すナタリアに、「慰問と言っても、軍の命令で、兵隊に行ったのと同じ。そんなことはできません」と服部が答えると、ナタリアは仕方なくあきらめたという。
エリアナたち慰問団は、南京を中心に上海、蘇州などへ出かけた。ときには最前線ぎりぎりまで出向くこともあった。
エリアナは得意としたレパートリーの「瀕死(ひんし)の白鳥」などのほか、日の丸の旗をバックに「海ゆかば」「さくらさくら」などの演目が踊られている。バレエを初めてみる兵士も多かったが、好評だった。
しかし、敵性語が使えない戦地でのバレエのけいこには随分苦労したようだ。当時の慰問先での練習風景はどんなものだったのか。山川三太著の『「白鳥の湖」伝説』の中に、その様子を伝える記述がある。
〈兵士達の寄宿する宿舎の中で、敵性語を使ったレッスンをするわけにはいかなかった。バレエのパ(ステップ)を言い表す用語である「ザンネール」を「くるくるポン」、「ジュテ・アントルナ」を「足からげ」、「グラン・ジュテ」を「はすがいとんぼ」と言い換えてのレッスンが続いた〉 少し間が抜けた感じもするが、フランス語を知らない日本人には、こちらの方がどんな「パ」か想像しやすいかもしれない。
「ママ、それごらんなさい。何も起こらなかったじゃない。もう一週間もすれば帰れるって」と、服部がナタリアに話しかけた。エリアナから、「順調に慰問を終え、あともう少しで日本に戻れる」という内容の手紙が届いていたのだ。
しかし、ナタリアの夢は正夢となってしまう。五月三日、南京の中支陸軍病院でエリアナは寂しく息を引き取った。破傷風だった。顔の傷から病原菌が入ったらしい。
軍部では、エリアナの死を「軍属の栄誉」としてたたえた。母、ナタリアには、陸軍省から弔慰金も支払われた。 エリアナも、妹のナデジタも共に生涯独身を通した。パブロバ一家が興した「霧島家」は一代で途絶えた。ナデジタ亡き後、エリアナの遺品は神奈川県鎌倉市の旧華頂宮邸で保管されている。 日本をこよなく愛したエリアナは今、横浜外国人墓地で母、妹と眠る。エリアナがまいた種から、「日本バレエ」という大樹が育った。(敬称略)
■慰問団 兵士の慰労を担当する陸軍恤兵(じゆつぺい)部が慰問団を編成、派遣した。慰問団は国内外の軍隊の駐屯地だけでなく、前線や軍需工場、農村などにも出向いた。エリアナが慰問したときは、バレエダンサーのほかに浪曲、三味線、日舞、寸劇などを演じるショー・ダンサーなど10人前後の編成だった。
illustration by 華月 法里さん
本サイトはこちら
埋葬者の子孫、丁寧な管理に感激
前のページへ