新聞記事に見る横浜外国人墓地と山手1988~2002

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53年目の夏
「アンネのバラ」が咲いた

1998.08.13 中日新聞社・朝刊

“日本のシンドラー”から中学生まで時空を超えて広がる人のつながり。平和を祈り、つぼみは開いた――。横浜・山手の外国人墓地に植えられたバラの苗木が終戦記念日を前に花を咲かせている。

 バラは第二次大戦中、ナチス・ドイツの迫害に遭い、十五歳で人生の幕を閉じた「アンネの日記」の著者アンネ・フランクの隠れ家にあった苗木。戦後半世紀、山手の丘で開花したバラは訪れる人に「ナチス大虐殺」の歴史と平和の尊さを静かに語り掛けている。(小田克也) 
 墓地の玄関口には、十字の石碑などを背にして、薄いピンク色のバラの花が四つほど咲いている。管理員の樋口詩生さん(34)の話によると、昨年のよりも花びらが大きいという。 
 墓地にバラの苗木を贈ったのは、ナチスがユダヤ人の胸に「差別のマーク」として張り付けた「ダビデの星」や囚人服を展示している広島県福山市にあるホロコースト記念館。アウシュビッツ収容所解放五十年を迎えた一九九五年に開館した記念館は二十七年前、アンネの父の故オットー・フランクに出会った牧師の大塚信さん(49)が中心となって建てた。
 オットー・フランクの「平和をつくりだすため、何かをする人になってください」との遺志を、子どもたちが歴史を学ぶ場をつくることで具体化した。 そこでは、福山市や周辺郡部の中学生たちがグループをつくり、花壇や自宅でアンネのバラを育てている。
 その一人、広島大学付属福山中学二年の紙山慶美さん(福山市金江町)が昨年、横浜外国人墓地を愛する会の大藤啓矩さん(64)にバラを紹介。大藤さんは「修学旅行で墓地を訪れる中高生に平和の尊さを肌で感じてほしい」と、記念館にバラの株分けをお願いした。大藤さんもまた「何かをする人に」という言葉を実践に移した。 
 娘に代わって墓地に苗木を届けた紙山郁子さん(37)のもとに一年後のこの夏、墓地のバラの写真が届いた。送り主は戦時中、ユダヤ難民を救うため、日本の外交官・杉原千畝(ちうね)氏が発行し続けた日本通過ビザを手に、シベリア鉄道で日本に向かう難民を守ったユダヤ人故ジョーゼフ・シムキン氏の夫人の姉。シムキン氏の眠る同墓地を訪れた際に撮ったものだという。紙山さんは「時空を超えて、人のつながりが広がるようです」と感慨深げだ。 
 記念館から株分けされたように、墓地のバラの"子孫"が「平和の使者」として、いつかどこかに根付く日がくるのだろうか。樋口さんは「それが実現すれば素晴らしい。でも今は枯らさないようにするだけで精いっぱい」と笑う。大塚館長は「ホロコーストも原爆も人間がつくり出した。それをなくし克服するのも人間の仕事」と語る。これは、アンネ・フランクの親友だったイスラエル人ハナ・ピックさんが、記念館の開館式典の際に贈った言葉だ。間もなく終戦記念日の十五日がやってくる。
 紙山慶美さんら中学生たちの夢は、いつの日か広島市の平和記念公園をアンネのバラで彩ることだという。風に揺れる墓地のバラのように――。 

■記事の概要 第2次大戦中、ナチス・ドイツに迫害され、隠れ家での生活を日記に書いたアンネ・フランクゆかりのバラが昨年6

月、横浜外国人墓地に植えられた。苗木を贈ったホロコースト記念館(広島県福山市)の大塚信館長は「このバラは全国200カ所以上で咲いているが、墓地に植えられたのは初めて」と言い、奪われたユダヤ人600万人の生命の"形見"が、異郷を思いつつ永眠した外国人墓地で花開くことに感慨深げだ。
【記者メモ】ホロコースト記念館でバラを育てている中学生たちに出会った。紙山慶美さんの名前は以前から聞いていたので、バラを育てる中学生というのは女の子ばかりと思い込んでいた。ところが「こんにちわ」と出てきたのは、野球部にいるような日に焼けた丸刈りの男の子たち。バラの鉢を大事そうに抱えて「育てるのは、なかなか難しいんですよ」とほほ笑み、ホロコーストについても「まだまだ勉強不足です」とはにかんだ。 
 取材を終えて新幹線に乗り、横浜支局に戻る途中、横浜駅西口を通った。ルーズソックスをはいた茶髪の中高生であふれている。ガムをかんだり、携帯電話でおしゃべりする彼女たちも、バラを育てる中学生も同世代の若者と考えると、何ともいえない気持ちになった。 
(メモ) アンネのバラ アンネ・フランクの隠れ家(オランダ・アムステルダム)に咲いていた野バラをベルギーの陶芸家が観賞用に改良。オットー・フランクに贈ったのが始まりと伝えられる。オットーは一九七〇年代、バラの株を「平和の使者」として京都の聖イエス会にプレゼント。 その後、平和を願う人々の手で株分けされ、全国各地の教会や学校に植えられた。

「坂の上の雲」をゆく
外国人墓地の「連理の梅」

1999.03.07  産経新聞社・東京朝刊

 春の日を浴びた横浜・山手町の横浜外国人墓地。入り口わきの資料館から右手に、なだらかな坂を下ると、大理石の表面が切符の形をした墓石が目にとまる。碑銘に「鉄道の恩人 モレル氏」とある。 明治三年(一八七〇)、初代の鉄道建築師長として来日し、明治五年の鉄道開業を待たずに肺結核で客死したイギリス人、エドモンド・モレル夫妻の墓で、昭和三十七年に鉄道記念物に指定されている。 かたわらに、一本の梅が白い花をつけていた。

 モレルの死の半日後に夫人も亡くなる。葬られた二人を見守り続けた白梅の古木が、不思議なことに赤い花もつけた-と明治期にうわさになり、「連理の梅」と呼ばれた。現在の梅は二代目。 
「切符形の墓石は、昭和九年に鉄道研究家がボランティアで建てたものです。ただ、私も先代の管理員も、赤い梅の花は見たことがないですねえ」と、墓地の管理員の樋口詩生さん(三五)は話した。 
「モレルは、来日して二年足らずで亡くなりましたが、東京-横浜間の鉄道建設計画書を伊藤博文に出したほか、工部省と学術大学校の設置を提案するなど献身的に働いて、日本の鉄道建設に大きな貢献をしました」と語るのは、昭和鉄道高校講師で交通史研究家の沢和哉さん。
 明治五年九月、新橋-横浜間二十九キロから開業した鉄道は、同二十二年には東海道線が全通し、近代化を急ぐ日本の動脈になっていった。
『坂の上の雲』には、日清戦争の始まる前年の明治二十六年、当時の外務大臣の陸奥宗光が、司法大臣の芳川顕正と新橋駅のプ

ラットホームを歩く場面が描かれる。このころ、鉄道は官設、私設を含め、北海道では室蘭-小樽-空知太(そらちぶと)、本州は青森-東京-名古屋-神戸-三原、九州は門司-熊本まで、全国的に伸びていた。 西南戦争で、鉄道が軍事輸送に威力を発揮したことから、明治十二年、陸軍卿だった大山巌がその利用について本格的な調査を指示。朝鮮問題をめぐって清との関係が揺れ動くなか、複線化や停車場の改良が提案され、レールが伸ばされていった。 
 東京女子大教授で鉄道ファンの小池滋さん(六八)はいま、明治初年から磨き続けてきた日本の技術力に注目する。 
「日本人は急ピッチで技術を学び、師であるイギリスの鉄道技術をはるかに追い抜いた。分刻みに数百キロで走る新幹線が、大事故を起こしていないのは大変なもの。産業用から始まったイギリスに比べ、客車から始まった日本の鉄道は始まりから人情味豊かです」 
 開業当初の旅客列車にはトイレがなく、明治六年三月には、列車の窓から小用を足して、裁判所から十円の罰金を言い渡された乗客がいた。
「"おか蒸気"は乗るとクラクラする」とのうわさで、売店で万能薬の「宝丹(ほうたん)」が飛ぶように売れたという話もある。 
 そして構内販売の始まりは、イギリス人ジャーナリスト、ブラックによる日本語新聞「日新真事誌」(明治五年創刊)の即売。やがて殺人事件も起き、鉄道ミステリーのタネも…。 
 沢さんが拾い集めたこぼれ話はきりがなく、
「汽車の運転手は、明治十二年まで、すべて外国人でした。近代化の重要なけん引力として、日本人は技術を必死で学んだんですね」。 
 鉄道のシステマチックな姿に、子供のころから心が躍ったという小池さんは
 「こんど、700系のぞみが走り始めますね。最先端技術の凝縮なのに、レールの上を走るという基本形は不変。山あり谷あり、光の中も闇の中も、レールの上を往来する鉄道にわくわくします」と話す。 
 明治以来、急伸したレールの中には、いまでは廃線になったものも多い。直木賞を受賞した浅田次郎さんの短編集『鉄道員(ぽっぽや)』の表題作は、廃線の一人駅長の物語で、ことし、映画化される。 
 舞台は架空だが、明治以降、炭鉱の町として栄えた北海道"幌舞線"の終着駅。国鉄民営化に至る歴史の波の中で生きた一人の男の生涯が共感を呼び、単行本はミリオンセラーになった。 
 「明治期から時代を引っ張ってきた鉄道にも、ほころびが見られます。『坂の上の雲』は発表時に読みましたが、あらゆるものを歴史の中のものとして見つめる司馬史観は面白いですね。作風は全く別ですが、『鉄道員』も歴史の流れの中に立ってある人物の生涯を描いた点で、共通するものを感じます」 
 映画を撮影中の降旗康男監督(六四)はそう話した後、雪の中の鉄道を、存分にフィルムに収めた、と言った。
 横浜外国人墓地には、40カ国以上、約4600人の外国人が眠る。冬季は一般公開をしないが、今年は3月第2週から、土日祝日の正午から4時まで、ボランティアスタッフによる一般公開がある。