[人間模様]生麦事件
英国人に償い墓参30年
横浜・奈良原さん
読売新聞社1997.05.11 東京朝刊
「祖父が切った」と伝え聞く。ひんやりとした木陰を作る横浜外国人墓地の一角を、奈良原貢(みつぐ)さん(76)(横浜市)はまた訪れた。
墓石をはき、水をまく。石に刻まれた「リチャードソン」の英文字は半分、消えかかっている。 「最初は『何しに来た』と声が聞こえるようで怖くてね。でも、この世を去るまでお参りする。それが償いだと思う。じいさんと、わたしの」。両手を静かに合わせた。三十年以上の習慣だ。
無念の死と戦争体験を重ね 墓前で対話。
「許してくれたか」
それを父から聞いたのは二十一歳の夏。中国戦線に赴く直前、北海道の旭川第七師団の面会室だった。
「お前とは最後かも知れないから言っておく。生麦事件の犯人は奈良原喜左衛門ではなく、その弟、お前のじいさんだ」
祖父、繁の顔は写真で知っているだけだ。
薩摩藩士で、維新後は日本鉄道会社(のちの国鉄)社長や貴族院議員、沖縄県知事を務め、男爵位も受けた。
そして、生麦事件。文久二(一八六二)年、生麦村(今の横浜市鶴見区)で二十八歳の英商人レノックス・リチャードソンが薩摩藩の行列を乱したとして、藩士の喜左衛門(当時三十一歳)に切り殺された、と教えられていた。薩英戦争を引き起こした出来事だ。
しかし、喜左衛門は藩の実力者だった三つ下の弟、繁の身代わりになった、と父は言うのだ。出世した繁に対し、喜左衛門は三年後に病死した。鹿児島では兄弟両家の関係が険悪になり、傷害ざたもあったという。
貢さんの父は繁の三男で、五歳の時に後見人とともに札幌に移住した。貢さんは五人兄弟の末っ子だ。旧制北海中学の野球部投手で甲子園の土も踏み、卒業後は召集までノンプロの函館オーシャンで投げた。
「腕力が強く、けんかばかり。歴史にあまり興味はなかった」。
親せきから「貢の短気は繁に似ている」と言われることだけが祖父と自分との接点だった。
祖父を自分に重ねたのは、「死」が常に迫っていた中国の戦場でだった。「戦場を思い出すのはつらい」という。独立山砲部隊でひたすら歩き、野営を続けた三年間、恐怖が途切れることはなかった。食料が底を尽き、「捕虜を減らせ」と命じられた。
手渡された軍刀を握った瞬間、「じいさんもこうして人を殺したのか」と体が震え出した。
「ひどい下痢で力が入りません」。
何とかその場から離れた。 しかし、「死」を避け続けることは無理だった。中国軍と白兵戦を繰り返した。
「やらなければ、やられる。鬼になりました」。
仲間も失った。目をかけてくれた兵長はすぐ隣で機関銃に腹を貫かれた。肉親の名を呼んで絶命する同僚たちの姿に、あの英国人の話がまた頭をよぎった。爆風で負傷し、一九四五年二月、帰国した。博多港に着いた時、地面にほおずりし、「もう忘れよう」と誓った。
戦後、東京で食品会社を経営し、結婚して二子をもうけた。順調な日常に記憶は埋もれていった。ところが、四十歳過ぎから、同じ夢を何度も見るようになった。
「異国でお前の祖父に訳も分からず殺されたんだ」。
だれかが訴えていた。二十年前の戦場の光景がダブった。リチャードソンが眠る外国人墓地事務所に問い合わせると、墓参者はほとんどいないという。
「自分が行かなければ」。
七月の暑い日、初めて墓を訪れた。水をかけようと墓石に近付くと両足がすくみ、鳥肌が立った。それから毎月、命日の二十一日の前後に足を運んだ。五十歳が目前の七〇年、墓参に便利なように、東京から横浜に引っ越した。
気がかりはまだあった。交流がなかった喜左衛門の一族との和解だ。七二年、事件の百十年祭が生麦で開かれた際、鹿児島から出席した喜左衛門の孫、山口政雄さんと初めて会った。ぎごちない雰囲気の中、「祖父の墓の場所さえ分からない」と嘆く山口さんに「繁が鹿児島市内に自らの墓と並べて建てた」と伝えると、「お会い出来てよかった」と何度もうなずいて涙ぐんだという。
当時、七十四歳の山口さんは三年前に亡くなった。長男の純一さん(66)(鹿児島県薩摩町)は「事件を強く意識したのは父の代まで。事実がどうであれ、こだわるつもりはない」と淡々とした口調だ。
薩摩藩主だった島津家の資料館「尚古集成館」(鹿児島市)では
「薩藩海軍史など正式文献ではあくまで喜左衛門が実行者。奈良原家で異なる伝承があることは記録にとどめるべきだが、史実を覆す訳にはいかない」という。
国道一五号線のわきにある事件現場に建つ記念碑を訪れることも多い。しかし、六年前に狭心症で倒れて以来、出歩く機会は減り、墓地の坂も休み休み進むようになった。
妻の節子さん(73)は、夫の体を気遣いながら「墓参りはずっと続けるでしょう。あの戦争をくぐると、生き死にの一つ一つにこだわる思いはよく分かる。黙って見ています」と話す。
最近、気付いたことがある。繁が晩年住んだ横浜の高台からリチャードソンの墓がよく見えるのだ。めい福を願った証拠だ、と救われた思いがした。墓参を重ねてきたいま、「妙に墓から親密さが漂う」という。
「受け入れられた気がするんです。やあ、また来たか、と」。
真っ白なひげの口元がほころんだ。
外国人墓地整備に支援金
指揮者の小沢征爾さん
1997.05.15 共同通信
横浜市の観光名所として知られる中区山手町の「外国人墓地」の財政支援のため、指揮者の小沢征爾さん(61)がチャリティーコンサートの収益金約千四百万円を十五日、墓地を管理する財団法人「横浜外国人墓地管理委員会」に贈った。
小沢さんは、妻の父親が同墓地に埋葬されている縁から、慢性的な管理費不足を解消し墓地を整備してほしいと、地元の管弦楽団と昨年十一月、横浜市内でチャリティーコンサートを開いた。 この日は小雨の降るあいにくの天気だったが、小沢さんは墓地資料館前で横浜市に住む米国人の同委員会副会長ジョン・コモルさん(60)に収益金を手渡した。
小沢さんは「われわれは外国文化を当たり前に受け入れているが、多くの外国の人が日本を愛し、苦労しながら橋渡しになったことを忘れてはいけない」とあいさつ。 コモルさんも「墓地に眠るほとんどの人は遺族と連絡も取れない状態で、墓地の運営は大変厳しい。寄付は本当にありがたい」と感謝していた。
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埋葬者の子孫、丁寧な管理に感激
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