埋葬者の子孫、丁寧な管理に感激
(昭和にんげん史)
1988.12.17 朝日新聞社・東京夕刊
昭和55年3月17日の月曜日午後3時ころ、横浜市山手町の外国人墓地に外国人親子3人と1人の日本人が訪れた。その日本人は、墓地管理人の安藤寅三に尋ねた。
「ジョン・トランブル・スウィフトの墓はどこにあるだろうか。ここにお連れしたのはそのお孫さんで、ぜひ確かめたいとおっしゃる」
安藤は、スウィフトの名をすぐ思いだし、案内した。きれいに整備された墓に、スウィフトの孫夫婦たちは驚きの声をあげ、感激の面持ちで静かに墓参をした。
孫夫婦を外国人墓地まで連れてきたのは、神奈川大学教授の桜井邦朋(宇宙物理学)だった。ハワイ大学教授のデイビィッド・スウィフト(社会学)は学会で来日、宇宙についての関心から桜井に会って雑談中、「私の祖父は明治初期に日本のYMCAのために働いた。東京や横浜に住んでいたから、どこかに墓があるはずだ」ともらした。桜井は「それなら外人墓地にちがいない」と連れだってやってきたのだ。
安藤は、来訪者のない墓ほどていねいに手入れをしていたから、スウィフトの孫夫婦が、祖父母の並んだ墓を見て驚いたのはむりもない。
「こうしたことは時々ありましたね。どこの国の人だったか、老人夫婦が来て、身内の墓が立派に管理されていて泣き崩れていた。その姿は忘れられません」と、安藤は追想する。
J・T・スウィフトは1861年生まれで、アメリカでYMCA活動をしていた。「生きた英語教育」のために派遣教師をという日本政府の求めにこたえて、明治21年(1888)横浜に上陸した。明治学院教授や東大講師をつとめ、昭和3年(1928)死去まで英語教育に尽くした。島崎藤村もその教え子の1人だ。同時に、日本のYMCAの育成に貢献した人でもある。 その孫夫婦が来訪し、いろいろ話をしたとき、安藤ははたと、横浜YMCAの知人を思い出した。よく墓地に来ては面倒を見てくれていた、「横浜外国人墓地を愛する会」の世話役の1人、大藤啓矩だ。安藤は大藤の自宅の電話番号をスウィフトに教えた。
その夜、大藤が帰宅したとき、スウィフトから電話があったことを家族から聞いた。大藤はスウィフトの名を聞いて仰天、孫夫婦さがしに躍起となった。横浜か東京のホテルだろうと、主なホテル20くらいに電話をかけた。しかし該当者はなかった。
3日後の20日、再びスウィフト教授から大藤の自宅に電話があった。今度は直接話ができた。大藤は興奮しつつ「とにかく明日、墓地で会いましょう」という約束を取りつけた。『スウィフトものがたり』の著者である日本YMCA同盟の落合則男にも連絡をとった。 こうして、日本YMCAに貢献したスウィフトの孫と現在のYMCA関係者とが、90余年の時間の流れを超えて、感激の対面を果たしたのだった。まさに「スウィフト物語」の現出であった。その様子を見ていて、安藤は胸が熱くなるのを感じたという。 このとき一同は、墓前に献花した。短い礼拝の中で読まれた聖書の1節(使徒言行録第1章8節)は、のちに、傍らの石柱に刻まれた。 その後、スウィフト
教授と日本のYMCAとの交流が始まったことはいうまでもない。「恩人の名を忘れない」という日本人の徳がそのまま現れたような小さな話だ。
スウィフトが横浜に上陸してちょうど満100年の昭和63年2月20日、YMCAの仲間は孫夫婦とその長女を招いて墓前祭を催し、近くの教会で記念の礼拝と懇親会を開いた。=敬称略
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